もしクルト・クラウスがいなければ、現在のようなかたちでIWCは存在しなかっただろう - デヴィッド・セイファー
2WC Schaffhausen probably would have
survived without Kurt Klaus’ contribution, but in a very different way. - David Seyffer
1974年生まれ。文学博士、歴史家。ドイツとスペインで学んだ後、シュトゥットガルト大学で研究者となる。2007年からIWCの歴史編纂に携わった後、10年から現職。IWCの歴史だけでなく、プロダクトにも詳しい。
ダ・ヴィンチが大成功を収めた後、クラウスはまったく異なるプロジェクトにも携わるようになった。具体的には、クラーレ・エ・パピ(現APルノー・エ・パピ)とのコラボレーションである。
「1986年のことだったね。当時の彼らは仕事がなかった。(ジュリオ・パピは)私に共同で永久カレンダーを作ろうと持ちかけてきたが、私たちにはすでにダ・ヴィンチがあった。ただパピはクレバーだと思ったので、すぐブリュームラインに紹介したよ。そこで彼とミニッツリピーターを作ることになった。彼らは外部のアドバイザーとして、リピーターの設計に携わることになった」
ジュリオ・パピは自らの手掛けた初作を、IWCの「グランド・コンプリケーション」(90年初出)と断言する。彼は筆者にこう語った。
「最初の作品は86〜88年にかけて作ったものだ。私はそこである偉大な設計者(クルト・クラウスのこと)と出会った。かつての私は時計師ではあったが、設計者ではなかった。私が設計を教わったのは彼からだね。時計については彼から学んだ」。このパピのコメントをそのまま伝えたところ、クルト・クラウスはこう答えた。「当時のパピは才能に富んでいたが、リアリストではなかった。クレイジーなアイデアをいくつも持っていたが、そのままでは製品になりにくいものばかりだった。つまりプロトタイプでは問題ないが、とても生産できないものばかりだった。そこで私が製品化を手掛けた。ワイヤ放電加工機で部品を切らせたりとかね。もちろん私も、彼から実に多くのことを学んだし、いい友人だよ」。
しかしパピといえば、今や石橋を叩いて渡るタイプの物堅い設計者であり、それが彼に名声をもたらしたのではなかったか。
「現実的になることを学んだのかもしれないね」。歴史に〝もし〟はないが、彼らが出会わなければ、パピは設計者としての名声を得なかったかもしれず、ロベール・グルーベルや、キャロル・フォレスティエ=カザピ、ピーター・スピークマリンといった、ルノー・エ・パピ出身の時計師たちも、日の目を見ることはなかったかもしれない。少なくとも、彼らの出会いがなければ、複雑時計が〝ニッチな玩具〟に留まっていたことだけは断言できる。
この時期クラウスは、70年代後半に採用したETA製エボーシュの改良も手掛けた。なお、それ以前にIWCが使っていたのは、自社製の854系や、薄いジャガー・ルクルト製の自動巻きであった。「ジャガー・ルクルトのキャリバー889(82年までは888)は、薄くて難しい機械だった。ただ当時、代替機となるのはETAしかなかった」。彼はETAに改良の要望を送っただけでなく、自社でチューンすることでクロノメーター級以上の精度を与えた。とりわけIWCが開発した手法、たとえば香箱のトルクを全数検査したり、精密な脱進機に交換して精度を上げる手法は、他社だけでなく今やETA自身も模倣するものだ。仮にIWCが細かく改良を求めなかったら、ETAのエボーシュはこれほど高精度にならなかっただろうとは、スウォッチ グループの関係者すら認めることだ。クラウスは多くを語りたがらないが、「私はETAか
給料をもらってもいいと思うよ」という述懐は、おそらく本心だろう。
キャリバー100を初めて組み立ててから約20年。決して天才には見えないクルト・クラウスは、非凡な業績をIWCだけでなく、スイスの時計業界全体に残しつつあった。本人にはその理由が分からないようだが、筆者には理解できる。彼が抜きんでていたのは、他者から学び、改良する姿勢ではなかったか。