現在でこそスイス時計産業の一大集積地として知られるトラヴェール渓谷の小村フルリエ。この地に後の産業基盤を作り上げた人物こそ、18世紀から続く時計師一族のエドワール・ボヴェであった。ロンドンに拠点を置き、東インド会社の販路を通じて清朝皇帝を始めとする富裕層に珍重されたボヴェ。その品質を支えたのは、当時のフルリエに174名いたとされるアルチザンたち。“フルリザン”と呼ばれる独自の様式を生み出した彼らの哲学は、自身も熱心な蒐集家であるパスカル・ラフィ率いる現代のボヴェにも、脈々と息づいている。
鈴木裕之:文 Text by Hiroyuki Suzuki
BOVET
ミニアチュールエナメルやパール装飾を施した華美なポケットウォッチを製作し、19世紀に清朝中国の富裕層を顧客としたことで大きな成功を収めたボヴェ。1822年、エドワール・ボヴェによってスイス・トラヴェール渓谷のフルリエに設立された同社は、〝フルリザン〞と呼ばれる独自の様式美を生み出していった。1997年のバーゼル・フェア(現バーゼルワールド)でブランド復活後の初作を発表するや、熱心な蒐集家のひとりであったパスカル・ラフィの目に留まる。当時、スイスの製薬業界に身を置いていたラフィは2001年にボヴェを買収。以降の同社は、生産の垂直統合化を推し進めると同時に、アートピースやコレクターズピースの製作に傾注。現在でも生産数の約3分の1がオーダーメイドだという。
ボヴェの開発・製造拠点となっているのはジュラ地方トラメランにある「ディミエ1738」。2006年7月にボヴェ傘下となったこの工房は、安価なトゥールビヨンエボーシュの外販で知られていたSTT(=スイス・タイム・テクノロジー/旧プログレス・ウォッチ)が母体である。現在60〜65名のスタッフが常駐し、43の職種を受け持っている。その中にはCNCを駆使した切削加工はもとより、スイス時計業界の中でも少なくなってしまったエタンパージュ(プレス加工)やヒゲゼンマイの独自製造も含まれる。買収直後には、STT時代に培われた技術のクォリティアップを目した組織変更を積極的に行い、旧STT製ムーブメントの改良版を投入。12年にはアマデオ専用のトゥールビヨンが開発されている。両者の違いはキャリッジの位置だが、後者は〝純然たる高級機〞として設計されている。14年にトゥールビヨンエボーシュの外販を終了(修理部品は継続供給)すると、トゥールビヨン以外の自社製ムーブメント開発にも着手。15年に完成したブレイブハートをもって、名実ともに〝フルリザンの末裔〞たるに相応しい、アートピースの作り手となった。また、ジュネーブ郊外のプラン・レ・ワットにあったダイアル製造部門を、17年にトラメランに統合。移設に際してはスタッフの意向を最優先して、約10年もの準備期間をかけたという。
ディミエ1738のエボーシュ製造部門で、大きな武器となっているのがデコルタージュだ。CNC旋盤とCNCフライスを組み合わせた、いわゆる〝スイス旋盤〞で、ネジやカナ、香箱といった丸棒材からの切削加工に用いる。素材は真鍮、鉄、銅、アルカップ、チタン、アルミニウム、カッパーベリリウム(CuBe)などに対応可能で、加工の最大径は直径25㎜程度。フライス加工で製作していたテンワは、4年ほど前からデコルタージュに切り替えた。フライスで加工するよりも手直しが少なくて済むようで、現在の加工精度で起こりうる問題の大半は、素材の側に原因があるのだという。
ムーブメントの受けや地板を切削するCNCフライスは、多くの場合は3軸(平面加工のみなら可動軸が少ない方がオペレーションの精度を上げられる)だが、ディミエ1738では7軸フライスも併用する。ボヴェの時計では、地板や受けの形状が立体的であることも多いためだ。またレーザー加工機を用いないため、ムーンディスクなどの複雑な彫金加工もすべてフライスで行われている。
もうひとつのハイライトは、約70年以上のノウハウを持つというエタンパージュだ。STTの旧社名であるプログレス・ウォッチは1998年の創業だから、その中に老舗の工房が吸収されて、現在に至っているというわけだ。プレスの打ち抜きで製作するレバー類やアンクルといった時計部品以外にも、医療分野や他の工業分野からの受注も多く、圧巻は航空機に搭載する高度計用のドラム。薄板を筒状に絞り出した後、プレスを繰り返すことで徐々に径を大きくしてゆく。この部品は航空法の規制で切削加工が禁止されているらしく、ディミエ1738が唯一のサプライヤーに指定されている。
ファイナルアッセンブリーが行われるのは、創業地であるフルリエの隣村、ムティエの高台に建つシャトーだ。約25名が勤めるここは14世紀の古城をリノベーションしたもので、ボヴェのヘッドオフィスとアドミニストレーション、そしてケーシングのためのアトリエが置かれている。アトリエ内とはいえ、文化財保護の観点から城の梁などには手を付けられないが、石壁には特殊なコーティングを施してホコリの発生を抑え込んでいる。温度/湿度は厳格に管理され、古城の中とは思えぬほどに、エアコンディションは良好だ。アッセンブリーに関して特別なことはないが、審美性の追求という面ではかなりの難作業のようだ。特にライティングデスクケースを用いるモデルは、ダイアル自体でアガキ調整を行ったり、針の下にルビーが仕込まれていたりといった難所も多いのである。
生産の垂直統合を推し進め、ここまでのアートピースを生み出せる存在へと導いたパスカル・ラフィは次のように語る。「ボヴェはグローバル化が進むスイス時計産業の中で特別な存在。独立性を保ったままでの垂直統合を成功させたのは、技術者たちの情熱に他なりません。高級であることの出発点は教養です。我々は19世紀の情熱と教養を継承し、革新を表現しなければなりません。それを支えているのはディテールへの愛。アマデオやフルリエといった現在の主要コレクションは、19世紀の再発見なのです」
かつてモントレシノワーズの代名詞とされ、独特なフルリザン様式が生み出された時代。清朝中国では高級懐中時計そのものをボヴェと呼び習わしていた。稀有なるアートピースへと生まれ変わった現在のボヴェは、まさしくその再臨だ。
銀座4丁目交差点近くに「ボヴェブティック銀座」オープン
住所:東京都中央区銀座5-7-6 i liv 1F
電話:03-6264-5665
営業時間:午後12時~午後8時 定休日:水曜
Contact info: DKSHジャパン ☎03-5441-4515