2001年にスタートし、03年から本格始動したパノコレクション。これは、ニッチな小メーカーから、ドイツを代表する時計メーカーに脱皮を図ろうする、グラスヒュッテ・オリジナルの意志が結実したコレクションだった。加えて、大きなムーブメントとオフセットされたレイアウトは、パノに、かつてない将来性をもたらすことになる。
広田雅将(本誌):文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2024年7月号掲載記事]
拡張するパノコレクションとムーブメント
デザインを含めて、パノコレクションの個性を形づくってきたのは、明らかにムーブメントである。大きく分厚いムーブメントをオフセット表示にすることで、このコレクションは、類を見ない拡張性を持つことになった。ではグラスヒュッテ・オリジナルは、どうやってこの個性を獲得したのか? その歩みを振り返りたい。
パノ レトログラフの60系からチャイミング機構を省いたのが本作だ。2002年発表。30分レトログラード式積算計と、フライバック機能を備える。手巻き。直径32.2mm、厚さ7.2mm。41石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約42時間。
パノコレクションを含むグラスヒュッテ・オリジナルのデザインは、明らかにムーブメント設計を反映したもの、と言える。デザインありきでムーブメントを作るのではなく、ムーブメントありきでデザインを仕立てる。今やデザインも重視するようになった同社だが、まずムーブメントが先に来るという開発姿勢は、基本的に変わっていないようだ。
グラスヒュッテ・オリジナルのムーブメントには、いくつかの特徴がある。ひとつはドイツのマニュファクチュール製であることだ。2001年にファイファーはこう語っている。「時計市場に私たちの入り込む余地がないことは分かっていました。というのも、素晴らしい時計や素晴らしいブランドはたくさんありますからね。しかし、ニッチは常に存在します。私たちの場合、それはドイツ製の時計である、ということでした」(『マネージャーマガジン』)。
手巻きのCal.65をベースとした自動巻きムーブメント。特徴的なダブルスワンネックはそのまま残された。今なおパノシリーズの基幹キャリバーだ。発表は2002年。自動巻き。直径32.6mm、厚さ7mm。47石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約42時間。
パノシリーズの個性を打ち立てたのが、手巻きのCal.65系である。4分の3プレートや、石を留めるシャトン、ダブルスワンネックなどが採用された。発表は2002年。手巻き。直径32.2mm、厚さ6.1mm。48石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約42時間。
そしてもうひとつが機能的であること。「ドイツ製品には容赦ない機能性が求められます。だから薄い時計は作らない」。もっとも、それだけではドイツのブランドにはなれなかっただろう。もうひとつの、そして最も大きな特徴が、複雑なムーブメントだ。ファイファーの下でムーブメントの設計に携わったジークフリート・ヴァイスバッハは『ウーレンマガジン』誌にこう語っている。
「国営企業の時代、私たちには高効率と合理的な生産しか求められなかった。しかしラグジュアリーの時代になって、グラスヒュッテの伝統が求められるようになったのです。私は幸いにも、アルフレッド・ヘルウィグのようなグラスヒュッテにおける重要な時計師に会えたし、過去の文献や残された時計から時計のメカニズムを学んだのでした」
彼の後継者となったのが、後にグラスヒュッテ・オリジナルの開発責任者となったクリスチャン・シュミッチェンである。彼は、ヴァイスバッハやファイファーとともにムーブメントの設計、つまりはグラスヒュッテ・オリジナルの個性を形づくってきた。その先駆けは、間違いなくパノシリーズの祖である「パノ レトログラフ」である。これは、オフセットしたレイアウトという特徴を生かし、30分レトログラードの積算計と、チャイム機能を備えた極め付きの野心作だった。
Cal.90系自動巻きにヘルウィグが発明したフライングトゥールビヨンを合わせたムーブメント。設計はクリスチャン・シュミッチェン。自動巻き。直径32.2mm、厚さ7.65mm(キャリッジ除く)。48石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。
シュミッチェンは語る。「(パノグラフ用の)Cal.60を設計するとき、ファイファーが来て、逆戻ししてみようと言った。それだけでなく、彼は音を慣らそうとも提案したのです。参考になるモデルはグラスヒュッテになかったし、そもそもレトログラードで針が戻り、ゴングで音が鳴るクロノグラフ自体存在しなかった」(『ウーレンマガジン』)。彼は多くを語らないが、2000年代に作られたムーブメントの多くは、だいたい彼が監修したものと考えて良さそうだ。そしてそれらはもちろん、新しいパノシリーズに搭載された。
現在、グラスヒュッテのパノシリーズは、大きく3種類のムーブメントを搭載する。「パノグラフ」が搭載するCal.61系(2002年)、そして自動巻きのCal.90系(02年)、そして手巻きのCal.65系(02年)だ。後者ふたつには「インバース」のような派生形があるものの、基本的な設計は大きく変わっていない。つまり、2000年代初頭に設計されたムーブメントが、今なお第一線にあるということだ。
2022年発表。ベースはCal.90系だが、アニュアルカレンダーが加えられたほか、パワーリザーブも倍以上に延長された。ヒゲゼンマイもシリコン製である。自動巻き。直径34.8mm、厚さ7.65mm。53石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約100時間。
設計を見ると、これらが残った理由は十分に理解できる。というのも、極めてグラスヒュッテ的、あるいはドイツ的なのだ。「薄い時計は作らない」というファイファーの意図を今なお受け継いでいるのか、グラスヒュッテ・オリジナルのムーブメントは、基本的に大きくて分厚い。パノがリリースされた2000年代初頭を見ても、新規開発されたムーブメントはすべてが直径30mm、厚さ5mmを超えている。そしてムーブメントは、過剰とも言えるほど厚い受けで蓋がされている。
理由を語るのは、シュミッチェンとともに初の永久カレンダーを作り上げたエバーハード・カデンだ。「4分の3プレートは必須なのです。というのも、このプレートのおかげで軸が強固に固定され、同時に(ムーブメントに)頑強さをもたらすからです」(『ウーレンマガジン』)。大きなサイズには、もうひとつの恩恵があった。それが高い拡張性だ。
自動巻き版の「インバース」が採用するムーブメント。ダブルスワンネック付きの受けを文字盤側に移植するだけでなく、輪列などを一新し、ローターのサイズも拡大。パノマティックムーブメントでは珍しいフルローター仕様が採用された。
大ヒット作のインバースにはいくつかのバリエーションが存在する。これは2014年に発表された第1作。テンプの上にはパノラマデイトが備わっている。自動巻き。直径38.2mm、厚さ5.95mm。49石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約42時間。
グラスヒュッテ・オリジナルの開発したパノラマデイトは、当時CEOだったフランク・ミュラー博士が強調したように“他社のもの”とは異なる設計を持っていた。具体的には「日付の数字を表示する2枚のディスクが同じレイヤーにあるため、表示の視認性が向上」したのである。その代償として、日付表示は決して薄くない。しかし、大きくて分厚いうえに、余白のあるムーブメントに組み込むのは難しくなかったはずだ。
こちらは手巻きパノ リザーブのインバース版。ベースは65系である。ムーブメントに飾り板を付けるのではなく、受け自体を文字盤に見立てたのは極めて斬新な試みだった。手巻き。直径38.3mm、厚さ5.95mm。31石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約42時間。
スペースはパノシリーズに、わかりやすい個性ももたらした。それがテンプの受けに設けられたデュープレックススワンネック(日本で言うところのダブルスワンネック)だ。ひとつのスワンネックが緩急針の調整を、もうひとつがビートエラーの調整ができるこの機構は、審美的なだけでなく機能性にも優れるが、スペースが必要になる。しかし、大きなムーブメントを持つパノコレクションにとって、これは問題でさえなかったようだ。
この個性を最大限に強調したのが、08年に始まる「パノインバース」だ。ダブルスワンネックを設けたテンプ受けを文字盤に移植することで、時計の心臓部を文字盤側に見せるという試みは、拡張性に優れるオフセットレイアウトがあればこそ、と言えるだろう。では最後に、極めてパノらしい、インバースの最新モデルを見ることにしよう。
PANO MATIC INVERSE
ムーブメントを反転させたデザインピース
2014年初出。既存モデルの自動巻き版だが、パノラマデイトが追加されたほか、デザインも2012年モデルに準じている。自動巻き(Cal.91-02)。49石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約42時間。18KRGケース(直径42mm、厚さ12.3mm)。5気圧防水。402万6000円(税込み)。
Cal.65系と90系で前面に押し出されたダブルスワンネックは、たちまちパノコレクションのアイコンになった。であれば、その心臓部を文字盤側から見せたい、と考えるのは当然だろう。今や多くの独立時計師やマイクロメゾンが好む試みに、いち早く取り組んだのはグラスヒュッテ・オリジナルだった。2008年、同社はダブルスワンネックを文字盤側に露出させた「パノ インバース XL」をリリースした。
もっとも、単にテンプをひっくり返せば良いというものではない。グラスヒュッテ・オリジナルは輪列を変え、新規でパワーリザーブ表示を起こす必要があった。果たせるかな、このモデルは世界的なヒット作となり、14年には、自動巻きの「パノマティックインバース」が追加された。本作もやはり、ベースとなった90系とムーブメントは別物だ。輪列配置が異なるほか、ローターも4分の3ではなく、ムーブメント全体を覆うフルローターに改められた。
本稿で述べてきた通り、パノコレクションの個性とは、大きくて分厚いムーブメントと、オフセットしたレイアウトがもたらしたものだった。仮にパノが薄くて小さなムーブメントを搭載していたら、これほどのバリエーションは持てなかっただろうし、テンプを文字盤側に移植させるという“遊び”も思いつかなかったに違いない。そう考えると、テンプを文字盤側に露出させた本作とは、ムーブメントの拡張性を生かしてコレクションを広げてきた、パノの在り方を象徴するモデルではないか。
スイスにはない時計を作るべく、グラスヒュッテ・オリジナルを立ち上げたファイファーとその仲間たち。オフセットレイアウトにしかできない造形を持つインバースとは、長い苦闘の軌跡の結実だろう。本作が今なお、燦然と輝く理由だ。
https://www.webchronos.net/features/105559/
https://www.webchronos.net/specification/96014/
https://www.webchronos.net/iconic/24142/