若い設計者たちは、私から何かを学んでくれただろう。だからもう言うことはないよ - クルト・クラウス
I have told them a lot of things. Now, they take them in their way. - Krut Klaus
1934年スイス、ザンクト・ガレン生まれ。ゾロトゥーンの時計学校を卒業後、IWCに入社。Cal.100(1968年)のプロトタイプ製作を皮切りに、ダ・ヴィンチ(85年)、グランドコンプリケーション(90年)などの傑作を数多く手掛けた。1999年に引退した後も、アドバイザーとしてムーブメント開発に携わった。2012年、開発の現場から完全にリタイア。
1990年代初頭、クラウスはETA7750に載せるスプリットセコンドモジュールの製品化に携わった。おそらく彼は、その際に得た経験をイーネンたちに伝えたに違いない。このイーネンの話を聞きながら、筆者はクラウスが語ってくれた、アルバート・ペラトンの人となりを思い出していた。
「ペラトンは偉大な設計者だった。しかし彼は決して偉ぶらなかったね。大変に良い設計だ。でもこうやったらいいかもしれないと言いながら、常に私たちを導いてくれた」
アルバート・ペラトンは、IWC入社以前に、すでに名声を得た設計者であった。かのジェームズ・ペラトンの甥であり、オメガの設計部長を務め、ヴァシュロン・コンスタンタンに招かれたほどの設計者は、人材の流動が当たり前になった現代にもそうはいないだろう。しかしそんな彼はIWCで、常にオフィスのドアを開けていたという。教えを請う技術者に、いつも門戸を開いていたのである。
IWC時計学校で初代校長を務めたウォーカー・バウマンとの間にも面白いエピソードがある。偉大な設計者に出会ったバウマンは、緊張のあまりトレイに入れていた部品をすべて床に落としてしまったという。対してペラトンは怒らずに、問題ないと述べた。
クラウスがペラトンを語るように、イーネンはクラウスを語る。若き日のクラウスは現在のイーネンだったに違いなく、そしてイーネンはやがて若い設計者たちに、クラウスのように接するだろう。筆者は合点がいった。だからこそIWCは、機械式時計冬の時代を経てなお、設計の一貫性を保ち続けたのだと。
ペラトンのアシスタントから始まったクラウスのキャリアは、多種多様な設計に結実し、それは若い設計者たちに伝わった。そんな彼は今、次世代に何を期待するのか。
「私がダ・ヴィンチを作ったとき、コンピュータは存在しなかった。IWCがコンピュータを導入したのは88年のことだ。しかし今はすべての可能性がある。私自身は、薄いムーブメントは好きでない。ただ今の技術を使えば、同じ機能でも薄いムーブメントを作れるかもしれないね。リタイアしたのでもはや未来のことは分からない。しかし若い設計者たちは、私から何かを学んでくれたのではないかと思う。だからもう言うことはないよ」
かのアルバート・ペラトンは、リタイア後IWCの再興を知ったという。しかし何も言わなかったと聞く。語り尽くしたクラウスもやはり、ペラトンに同じく時計の世界から静かに退こうとしている。しかしペラトンからクラウスにバトンが渡ったように、クラウスはイーネンに渡したバトンが、やがて若い設計者に継がれることを確信しているに違いない。そうやって歴史は、10年、50年、100年と積み重ねられていくのだ。
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