「時計文化サロン」としての高級時計店
そもそも現代の高級時計は必ずしも実用品ではない。愛好家の支持を得ている高級時計の多くは、歴史と文化を背景に生まれた趣味性の高い「腕に着ける芸術品」として選ばれ、購入され、使われている。だから2次元や3次元の画像、映像だけで購入するのは、モノを買うとき、特に嗜好性の高いものを買うときに特有の、自分の手で触れて吟味する喜びをわざわざ放棄しているということだ。そのうえ、どんなに信頼できるブランドのものでも、期待を裏切られるリスクがある。
高級時計を企画・開発・製造する時計ブランドはもちろんだが、それを販売する直営ブティックや時計専門店、百貨店のスタッフも、一流の人々はこのことをよく理解している。だから実店舗は、そのブランドの世界観を忠実に反映した、ブランドのファンなら足を踏み入れただけでも喜びを感じる贅沢な空間を、お金をかけ趣向を凝らして作って、満足度を高め、充実させている。
つまり高級時計を扱う時計店は、ただの販売店舗ではなく、時計を中心にした文化的な「サロン」といえるのだ。顧客はその店で高級時計を購入することで、そのサロンのメンバーとなり、カタログやウェブではわからない魅力的な時計の情報、さらに高級時計から広がるさまざまな趣味や文化に触れることができる。おいしい珈琲やお茶、時にはお酒でもてなしてくれたり、なかには顧客のために、ゴルフ大会やクルージングなどのイベントを開催したりするところもある。日本の一流時計店は、その世界観はさまざまだが、こうした「時計文化サロン」になることで時計ブームを牽引してきたのだ。
オンライン販売のデメリット
また高級時計は、高級なものになればなるほど、定期的なメンテナンスが欠かせない。購入した後のメンテナンスについて、それ以外の知りたいことや困りごとがあっても、「売り手の顔が見える」実店舗なら気軽に相談できる。
商品を売るだけのオンライン販売には、こうしたサロン的な機能もその矜持もない。消費者の中でも一部の人々、具体的には転売で利ザヤを稼ぐ転売屋、いわゆる「転売ヤー」や、時計自体に興味がなく投資案件としてしか時計を見ない「時計投資家」以外の多くの消費者、特に『クロノス日本版』本誌やこのwebChronosを愛読している時計愛好家には、それほどメリットは感じられないだろう。
消費者としっかりコミュニケーションが取れない、だから製品やサービスについてきちんとした説明ができない、浅い信頼関係しか築くことが難しいオンライン販売は、時計販売店やそこで働く販売スタッフにとっても、長い目で見れば良いことはない。一時は「手間がかからず楽に売上高が上がる」かもしれないが、後々のトラブルは多いし、継続した顧客確保も期待できない。
時計以外の大量生産品のオンライン販売を改めて見ると、販売競争は結局のところ、納品のスピードや値引き、「どんなオマケを付けるか」のバトルになってしまう。
販売価格がいくら以上を「高級時計」と呼ぶべきかの定義はともかく、そもそも生産数が少なく、説明するディテールの多い高級時計はこうした販売スタイルに最も不向きな商材なのだ。
新型コロナウイルスによる都市のロックダウンが解除されれば、パテック フィリップは間違いなくこの「一時解禁」を終了するだろう。
なお、高級時計ではないが、この新型コロナウイルスによる一時閉店を受けて、日本の百貨店の中には、ラグジュアリーなアイテムのオンラインによる接客販売の検討を始めたところもある。この取り組みがそれなりに成果を上げれば、高級時計のオンラインビジネスにも、新たな展開が起きるかもしれない。
渋谷ヤスヒト/しぶややすひと
モノ情報誌の編集者として1995年からジュネーブ&バーゼル取材を開始。編集者兼ライターとして駆け回り、その回数は気が付くと25回。スマートウォッチはもちろん、時計以外のあらゆるモノやコトも企画・取材・編集・執筆中。
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