60周年限定として、500本製作された限定モデル。手巻きのCal.822に、パワーリザーブとデイト表示を追加している。自社製の大ぶりなケースに加えて、良質な外装を備えている。文字盤の立体感にも注目。以降の定石となった手法がすべて盛り込まれている。手巻き(Cal.824)。23石。1万8000振動/時。パワーリザーブ約42時間。18KRG(縦42.2×横26mm)。30m防水。限定500本。参考商品。
レベルソ復活から複雑化への戦略
1985年に再復活を遂げたレベルソ。91年の「レベルソ60周年記念モデル」と翌年の「ビッグ・レベルソ」は、愛好家向けのニッチなプロダクトと見なされていたレベルソに、新たな可能性を開いた。以降レベルソは、複雑化とケースの大型化を両輪にコレクションを拡大する。加えて、前CEOのジェローム・ランベールはケースの拡大によるラインナップの拡充を企図。レベルソに興味を持てなかった多くの層へのアプローチに成功した。
60周年記念モデル以降、ジャガー・ルクルトは毎年のように複雑機構を載せた限定モデルをリリースし、非凡な技術力を見せつけた。これは2000年までに発表されたコレクションのセット。トゥールビヨン(1993年)、ミニッツリピーター(1994年)、クロノグラフ・レトログレード(1996年)、ジオグラフィーク(1998年)、パーペチュアルカレンダー(2000年)が加わった。いずれも18KPG、限定500本。参考商品。
1979年以降、細々と生産が続けられたレベルソ。再復活を遂げたのは85年のことである。指揮を執ったのは、新しい経営母体の計器メーカーVDO社から送り込まれたギュンター・ブリュームライン(1943〜2001年)。84年以降、ジャガー・ルクルトの戦略見直しに携わった彼は、86年に全権を握り、レベルソのリニューアルに取り組んだ。97年、彼はオーストリアのジャーナリストに当時の状況をこう語った。「当時のジャガー・ルクルトは瀕死の状態にあった。私がそこで見つけたのは、想像したことがすべて行われているという状態だった。彼らは他ブランドのためにライターやペンを作り、医療機器や測定機器、もちろん、ムーブメントや時計も作っていた」。ブリュームラインは利益を上げない部門(つまり時計以外のすべて)から撤退し、「ルーツに戻ること」を目指した。そこで彼が注目したのは、愛好家向けのコレクションと見なされていたレベルソである。IWCで「ポルシェデザイン」(82年)を成功させたブリュームラインは、ジャガー・ルクルトにも同様の強い「アイコン」を望んだのである。
このあたりの経緯を、ジャガー・ルクルトは「1980年代にイタリアから要望があったため、レベルソの生産を再開した」とのみ説明する。もう少し具体的に述べたい。機械式時計がブームであったイタリアの要請に対して、ジャガー・ルクルトは第2世代(79年)のようなクォーツではなく、機械式ムーブメントを載せたレベルソの提供を考えた。しかしそれは、普段使いできる時計でなければならない。ジャガー・ルクルトはケースの内製化に取り組み、防水性能を持たせることに成功した。これが85年の第3世代モデルである。ただ、多くの関係者が指摘する通り、仮にライターやペンを作っていなかったなら、ジャガー・ルクルトはケースを内製化できなかっただろう。
86年にはテクニカルディレクターとしてアンリ・ジョン・ベルモンを、翌年にはデザイン部門にヤネック・デレスケヴィクスを招聘したブリュームライン。彼は早速、レベルソを含む全コレクションの見直しに取りかかった。しかし、86年、単体で「120万スイスフランの追加融資を必要とした」(ブリュームライン)ジャガー・ルクルトに、残された時間は多くはなかった。VDO社は、ジャガー・ルクルトが持つオーデマ ピゲの株(約4割)をすべて売却したが、存続の猶予期間をわずかに延ばしたにすぎなかった。彼らはもはやレベルソを成功させる以外に、選択肢を持てなかったのである。
ダイアル、ケースバック、ケースキャリアの3つの面に18もの機能を載せた超複雑時計。脱進機にはデテントの改良版であるエリプス・イゾメーター脱進機を搭載。文字盤全面にギョーシェ彫りが施されている。手巻き(Cal.175)。79石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。Pt。30m防水。5460万円。限定モデル。
アンリ・ジョン・ベルモンとヤネック・デレスケヴィクスによる初のモデルが、91年のレベルソ60周年記念モデルである。これはマニュファクチュールらしい複雑機構に、優れた外装を併せ持つ大作であった。限定数の500本はたちまち完売し、ジャガー・ルクルトはひと息つくこととなる。なお、複雑機構を載せるために、60周年記念モデルは通常より大きい「ビッグケース」を備えていた。これは翌年の「ビッグ・レベルソ」にも転用され、やはり大ヒットを遂げることになる。
複雑なムーブメントと、それを収める大ぶりなケース。この組み合わせは、やがてレベルソの「定石」となった。事実、2001〜13年にCEOを務めたジェローム・ランベールも「レベルソの大きなターニングポイント」として「1991年の60周年記念モデル」を取り上げている。以降のジャガー・ルクルトはレベルソの複雑化に傾注したが、もちろん他を疎かにしたわけではない。90年代には文字盤と針の内製化に着手。やがて、その試みは多様なデザインをレベルソにもたらすこととなる。
ランベールが言うレベルソの転換期はふたつある。ひとつは先述の60周年記念モデル、もうひとつがその際に採用された「GT(グラン・タイユ)」ケースである。レギュラーサイズよりひと回り大きなGTケースは、複雑なムーブメントを載せるためのものであった。しかし、大ぶりなケースは、既存のレベルソに興味を持たなかったファンをも惹きつけた。ブリュームライン以降、ジャガー・ルクルトが取った戦略とは、「コアコレクションの育成」と「隙間を埋めるラインナップ」であった。ブリュームラインとアンリ・ジョン・ベルモンは、機構の複雑さでレベルソに奥行きを演出した。そこにランベールは、ケースサイズという選択肢を加えたと言える。こういった芸当ができるのも、ムーブメントをはじめ、ケースや文字盤を自製できるジャガー・ルクルトだからこそ、だろう。とはいえ、すべての試みが成功したとは限らない。例えば、正方形のケースを持つ「レベルソ・スクアドラ」。確かに、レベルソの特許申請時はスクエアケースであったが、このモデルがレベルソらしいかは判断が分かれるところだろう。だが、ケースバリエーションを増やすという試みが、レベルソをニッチなプロダクトから解放したのは紛れもない事実だ。91年の60周年記念モデルから20数年。レベルソは、今やジャガー・ルクルトを象徴する真のアイコンとなったのだ。