名機Cal.3180とその「先駆者」たち
世界水準の高精度機として開発された初代グランドセイコー。しかし搭載するCal.3180は、一朝一夕に生まれたものではない。1956年のマーベルに始まる、優れたセンターセコンド機があればこそ、Cal.3180は高い完成度と、世界水準の精度を持つに至ったのである。ではどのような経緯を受けて、諏訪精工舎はCal.3180に至ったのだろうか。初代GSの「先駆者」である、マーベルやクラウンを含め、諏訪精工舎の設計をみていくことにしよう。
1960年発表。設計チーフは牛山尭雄氏。クラウンの設計に、ロードマーベルの仕上げを加えた高精度機。巨大なスムーステンプは、当時の量産機でも最大級の慣性モーメントを与えた。2番カナと香箱にはトルク変動の少ないインボリュート歯車を、輪列受けにはダイヤショックを採用する。興味深いことに、テンプの耐震装置は当時最新のキフに酷似する。手巻き。25石。1万8000振動/時。パワーリザーブ約40時間。
テンプとムーブメントを拡大して高精度を実現する。この方法論は1956年のマーベル(と58年のロードマーベル)に始まり、3年後のクラウンを経て、60年の初代グランドセイコーで完成を見た。しかしマーベル以前に、紆余曲折があったことは想像に難くない。
こういう例がある。おそらく55年前後、諏訪精工舎はオメガ28㎜キャリバーの忠実なコピーを製作した。しかしプロトタイプの完成直後、開発は取りやめとなった。あまりにオメガに似ていたためだろう。
以降の諏訪精工舎はスモールセコンド輪列を放棄し、当時最新の、2番車と4番車を重ねるセンターセコンド機の開発に取り組んだ。この輪列はETA1100系などが採用したものだが、大々的に取り入れ、成功を収めたのは日本の時計メーカーだけである。諏訪精工舎はもちろん、第二精工舎もクロノス(58年)でこの輪列を採用。シチズンも名機「ホーマー」(60年)で追随する。理由はいくつかあるが、もっとも大きな要因は生産性だろう。50年代半ば、諏訪精工舎は輪列のホゾ穴を、切削ではなくプレスで抜く製法(ロケーチング)を開発した。プレスで抜くなら穴数は少ない方が良く、2番と4番を重ねたセンターセコンド輪列はもっとも適している。当時の諏訪精工舎が、ホゾ穴の真出しに悩まされたことを考えれば、なおさらだろう。またこの輪列は、センターセコンド針の運針にも優れていた。出車などでセンターセコンド化した場合、運針を安定させるため、秒カナに規制バネを当てる必要がある。しかしこの輪列の場合、バネは必要なかった。
しかしこの輪列にはデメリットもあった。ムーブメントの厚みが増すだけでなく、2番車と4番車にはさまれるため、香箱の体積を拡大できなかったのである。つまり自動巻きを載せにくく、主ゼンマイのトルクも増やしにくい。この輪列が、スイスで主流とならなかった理由だ。対して諏訪精工舎は、薄型自動巻きのマジックレバーを開発。また主ゼンマイのトルクを増し、テンプの直径を拡大するために、ムーブメントのサイズ自体を広げた。
当時の諏訪精工舎が、アメリカのメーカーのような制約を受けなかったことも幸いした。自国の時計産業を保護するため、当時のアメリカは、輸入関税に基準を設けていた。ムーブメントの直径が11.5リーニュ(25.6㎜)、石数が17石以上の場合、税額は大きく跳ね上がったのである。しかし国内市場向けに時計を作っていた当時のセイコーに、アメリカの基準は必要なかった。マーベルの石数は17石から19石、21石と増え続け、クラウンに至っては、直径12リーニュ(27.40㎜)もの巨大なムーブメントを載せていた。
「超高精度機」を謳う初代GSの開発にあたって、諏訪精工舎がクラウンの巨大な基礎体力に注目したのは当然だったであろう。ミクロン単位で選別された部品と、微調整緩急針、そして調整師による入念な調整は、新しいキャリバー3180に期待以上の高性能をもたらした。
60年代半ば以降、GSは独創的な設計と超高振動によって、量産機としては史上最高の精度を実現する。しかしながら、後の諏訪精工舎が独創的な設計に挑めた理由は、初代GSで「ムーブメントのサイズを拡大する」という定石をやり尽くしたためだろう。
「藍より出でて藍より青し」
キャリバー3180には、この言葉が相応しい。
生産性と高精度を両立させ、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)を大きく成長させた。マジックレバ-(1959年)、クォーツアストロン(69年)などの設計・開発に携わる。87年、セイコーエプソン社長に就任。現同社名誉相談役。