永遠の原型機、96スタイルの変遷

カラトラバの初作にあたるのが、1932年に発表されたRef.96である。このモデルが採用したデザイン要素。つまり、ラグとミドルケースを一体化させたケースと、視認性の高いインデックスと針の組み合わせは、後に時計業界のスタンダードとなる。では、カラトラバのオリジンは、どのような変遷を遂げていったのだろうか。

カラトラバ Ref.2545

カラトラバ Ref.2545
Ref.96の造形を受け継ぎながらも、防水ケース化したモデル。直径が30mmから32mmに拡大されたほか、ベゼルとミドルケースを一体化したツーピースケースに改められた。手巻き(Cal.12-400)。18石。1万8000振動/時。18KYG(直径32mm)。1954年発表。参考商品。個人蔵。

 カラトラバ・スタイルの原型となったRef.96と、その防水ケース版であるRef.2545。多くの文献と、パテック フィリップの公式な見解に従うならば、そのデザインはバウハウスの影響を受けたものであるそうだ。しかし筆者は、こういった見方に少し距離を置きたい。

 1932年、文字盤メーカーの社主であったスターン家が、経営難のパテック フィリップを買収した。社主のスターン兄弟は1933年にジャン・フィスターをディレクターに指名。タバン出身の彼は、パテック フィリップの自社製ムーブメント製造と主力商品の腕時計化を推し進め、58年にリタイアするまで同社に大きな成功をもたらした。

 フィスターの着任は33年。そしてRef.96のリリースは32年である。面白いことに、パテック フィリップの腕時計化を強力に推し進めたジャン・フィスターは、カラトラバには一切関わっていなかったわけだ。加えて開発期間は正味1年もなかったというから、名機96は経営移管時の混乱から生まれた時計のひとつだったと考えられる。

 ただし、Ref.96には優れたルーツとなるモデルが存在していた。ラグとミドルケースを一体化させたケースは、異説もあるが28〜29年には存在していたし、ドフィーヌ型ハンドとバーインデックスの組み合わせも、20年代後半の懐中時計に多く見られたものだ。あくまで推測だが、初の本格的な腕時計を作るにあたって、パテック フィリップは自社のアーカイブから必要な要素を引っ張り出してきて、手堅くまとめたのだろう。

 もっとも、多くの傑作がそうであるように、即興から生まれたRef.96は、それ故に腕時計としての機能性をデザインとして過不足なく盛り込むことに成功したのである。

(左上)カラトラバを特徴付ける湾曲したラグ。ただし、Ref.96とは異なり、バネ棒の穴が抜かれていない。理由はおそらく製法の進化だろう。使い込まれた個体が多い2545の中では例外的に、ラグのシェイプはよく原型を保っている。(右上)狭義のカラトラバに優れた視認性をもたらした立体的なインデックスと針。現在ではポピュラーになったダイヤモンドカットによる仕上げを、パテック フィリップは60年も前に行っていた。なお、この時代のパテック フィリップに固有の、ロゴが盛り上がったように見える文字盤仕上げは、表面にセルロースラッカーを吹き付けたもの。紫外線に弱いため、この個体のクリアほど厚みが残っている例は珍しい。おそらくは、文字盤表面のクリーニングは施されていないだろう。(中)側面の造形。ベゼルと一体化されたミドルケースに注目。Ref.96の造形に極めて近いが、防水性を持たせていることが分かる。(左下)スクリューバックのケース。標準的なカラトラバでは、ケースは基本的にスナップだった。(右下)6時位置からの写真。ケースサイズに比してかなり太目のベルトと、ラグとミドルケースの有機的な接合が見て取れる。しばしばカラトラバが、近代的な腕時計デザインの始祖といわれる理由だ。

 1980年代後半に、パテック フィリップはオリジナルのRef.96のデザインを復活させようと考えた。そこで登場したのが、Ref.3796の「カラトラバ」である。初出は82年。基本的なデザインは96をトレースしていたが、搭載するムーブメントが小径の215 PSに改められた結果、スモールセコンドは文字盤の中心に寄ってしまった。スモールセコンドの位置だけを見ると、この時計はRef.96の復刻というよりも、やや直径の大きなRef.2545の後継機に思える。

カラトラバ Ref.3796

カラトラバ Ref.3796
カラトラバを代表する名機。現在からするとケースは小ぶりだが、その高い視認性は決してそのサイズを感じさせない。名機Cal.215 PSを搭載。手巻き。18石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約44時間。Pt(直径30.6mm)。参考商品。個人蔵。

 直径は96とほぼ同サイズの30.6㎜。当時としても小ぶりであったが、狭義のカラトラバが持つ立体的なインデックスは、96と同様、このモデルにも非凡な視認性を与えた。パテック フィリップが狭義のカラトラバのデザインを好んだ理由、そして他社がカラトラバの文字盤を模倣した理由は、腕時計に不可欠な優れた視認性にあったのではないか。

 カラトラバ以前の腕時計は、基本的に懐中時計のインデックスのデザインと比率を、そっくり転用していた。しかし同じバランスのまま腕時計に使うと視認性は悪くなる。そこで1920年代には、インデックスを拡大して、視認性を確保する試みがあった。しかし単純にインデックスを大きくしてしまうと、今度は美観が損なわれてしまう。これは巨大なインデックスをデザイン要素に転化したフランク ミュラーが非凡とされるのと同様だ。

 カラトラバの新しさとは、インデックスと針を立体的に成形することで、懐中時計のインデックスと文字盤の比率を保ちながらも、より小さなケースサイズと優れた視認性を両立させた点にある。そして、その美点を最も実感できるのは、96のサイズを受け継いだ3796である。そう言ってしまうのは、筆者のひいき目に過ぎるだろうか。

(左)カラトラバの標準であるスナップバック。小径のムーブメントを搭載した結果、リュウズの直径は小さくなった。(中左)6時位置からのアングル。基本的な造形はRef.96に同じだが、風防の造形を含めて薄型化が図られた。(中右)ケースと一体化されたラグ。しかしRef.96に比べるとわずかに側面の湾曲が浅い。(右)非常に高く盛り上がったインデックス。見返しの幅があるためか、インデックスにはやや盛り上がった造形が与えられた。(下)ケース側面。リュウズの位置を見れば分かる通り、ムーブメントの位置は極めて低いところにある。低い重心と薄いケース、そして長いラグの組み合わせは優れた装着感をもたらした。

 Ref.3796の後継機として、2003年に発表されたRef.5196。直径は37㎜にまで一挙に拡大されたが、搭載ムーブメントはキャリバー215 PSをそのまま採用した結果、スモールセコンドの位置はいっそう文字盤の中心に寄ってしまった。筆者はこうしたスモールセコンドの処理を好まないが、今や目が慣れてきたというのが偽らざる感想だ。

カラトラバ Ref.5196

カラトラバ Ref.5196
Ref.3796の後継機。デザインは典型的なカラトラバだが、薄型時計といってよいほどの薄さを誇る。スモールセコンドの位置以外は申し分ない。手巻き。18石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約44時間。18KWG(直径37mm)。247万円。

 5196は、スモールセコンドの位置を除いて、3796より巧妙なデザインを受け継いでいる。一例が狭義のカラトラバならではのラグだろう。ケースを拡大し、ラグが太くなると時計の印象はマッシブになる。現行のロレックス「オイスター パーペチュアル」が好例だ。対してこのモデルは、ラグをわずかに太くしたものの、サイドを絞った。その結果、カラトラバのスレンダーな造形に現代味を盛り込むことに成功した。

 インデックスの処理も巧みである。ムーブメントの搭載位置をケースバック側に寄せた3796は、すばらしい低重心を持っていたが、半面文字盤側の見返しは広がっていた。対して5196では、ムーブメントの位置をややせり上げ(3796に対してリュウズの位置が文字盤に寄っていることが分かる)、文字盤もボンベ状に成形することで、見返しの幅を狭くしている。見返しが狭くなれば、インデックスを低く成形しても問題ない。3796もかなり薄い時計だったが、こういう配慮を加えることで、5196は狭義のカラトラバの造形を損なわない範囲で、その薄さをいっそう強調してみせたのである。

 パテック フィリップのデザイン力と、カラトラバの可能性を示した5196の造形。以降同社は、こういった方法論をほかのカラトラバにも敷衍していくことになる。

(左上)スナップバック式のケースバック。仕上げがポリッシュに改められたほかはRef.3796に同じ。しかし現代の時計らしく、ストラップとケースのクリアランスは詰められている。(中左)6時位置から。ストラップとケースの狭い間隔に注目。またムーブメントの位置を上げることで、ベゼルの高さを詰めていることが分かる。(中右)ラグの先端をわずかに太くしたのは現代風だが、ラグの造形はRef.3796より湾曲している。(右)立体的なインデックスと針。ただし、見返しを狭くしたことにより、インデックスの高さは抑えられた。(下)側面の造形。Ref.3796に比べてプロファイルはやや腰高だが、装着感は相変わらず良好である。