本格時計メゾンへの飛躍、その原点を振り返る
タンブール アーリーデイズ[2002~2011]
ルイ・ヴィトンのアイコンになるべく開発されたタンブール。デザインの経緯は明らかでないが、推測するのは難しくない。1990年代に事業の多角化を図ったルイ・ヴィトンは、同社の哲学に沿いながらも、まったく新しいイメージを持つ時計で、ウォッチビジネスに参入しようと考えたのである。
2002年に発表されたファーストタンブールの18KPGバージョン。樽型の2ピースケースを持つクロノグラフである。ベースムーブメントはゼニス製のエル・プリメロ。自動巻き(Cal.LV277)。36石。3万6000振動/時。パワーリザーブ約50時間。18KPG(直径44mm)。100m防水。参考商品。
1990年代後半から、ルイ・ヴィトンは事業の多角化を図った。97年には筆記具をリリース。同年には当時新進気鋭のマーク・ジェイコブスをアーティスティック・ディレクターに抜擢して、翌98年にプレタポルテにも進出した。また「シティガイド」を出版し、2001年にはジェイコブスの手によるジュエリーコレクションを発表。多角化の一環として、同社が時計市場への再参入を図ったのは必然だった。
残念ながら、タンブールの成り立ちに関する資料はほとんどない。唯一知られているのは、最終的にそのデザインをまとめたのが、当時フリーランスで活躍していたフランソワ・カンタンということのみである。しかし直接的には携わらなかったものの、ルイ・ヴィトンの多角化、さらに言えばウォッチビジネスの在り方に、マーク・ジェイコブスが影響を与えたことは容易に想像できよう。事実、イギリスの「テレグラフ」紙に、ジェイコブスはこう語っている。「(LVMHグループ総帥の)ベルナール・アルノー氏が、ビジネスパートナーのロバートと私を初めて招待したとき、私は、ルイ・ヴィトンが最終的にできると思ったすべてをプレゼンテーションした」(12年3月12日号)。そして彼の手による初のプレタポルテを見たジャーナリストのアミ・スピンドラーは、「ニューヨーク・タイムズ」紙に次のように記した。「ジェイコブス氏が契約にサインすることで、アルノー氏は羨望していたフォーミュラにようやくたどり着いた。つまりは、グッチやプラダのような、信頼できるファッションを提供するレザーグッズメーカーになるということだ」。しかしアルノーとジェイコブスが目指したのは、服や靴を作ることだけではなかった。彼らはルイ・ヴィトンを、ファッションに関するすべてを提供するブランドに脱皮させようとしたのである。
2004
Monogram Tourbillon
タンブール初のトゥールビヨン。LVロゴの代わりにイニシャルをオーダーできた。パーソナライゼーションの先駆けである。ラ・ジュウ・ペレ製のムーブメントを搭載。手巻き(Cal.LV103)。18KRG(直径41.5mm)。100m防水。2290万円(参考価格)。
2008
Orientation
簡易式のコンパスを内蔵した時計。12時位置は北半球を、6時位置は南半球を示す。ムーブメントの設計は、当時、複雑時計の設計に携わっていた、名手ジルダス・ル・ドゥサールによる。自動巻き(Cal.LV122)。SS(直径44mm)。100m防水。参考商品。
もっともジェイコブスの採った方法論は堅実だった。常々「私は魔法使いではない」と公言する彼は、ルイ・ヴィトン初のプレタポルテを、信頼できる実用的なコレクションに仕立て上げたのである。以降ルイ・ヴィトンは急速に多角化を推し進めたが、それらすべてには、プレタポルテに同じく、実用性が与えられた。プレタポルテを通じて、自らのアイデンティティである「旅」と「実用性」を再認識したルイ・ヴィトン。同社が98年に「シティガイド」を出版したのも、決して偶然ではなかったはずだ。
改めて言うと、ジェイコブス自身はウォッチビジネスにはかかわらなかった。しかしタンブールの発表後に、当時ルイ・ヴィトンの社長だったイヴ・カルセルが、「タンブールにおいて、旅と時は高度に融合した」と語った通り、その在り方に影響は与えただろう。なお2002年にリリースされたタンブールの第1作にはクロノグラフが含まれていたが、これも旅と実用性という観点からひもとけば十分に納得できる。
加えて同社は、このクロノグラフの細部にも配慮を加えた。積算機構に関わる針はイエロー、それ以外はシルバーないしはゴールド。あえて発色の難しいイエローを選んだ理由は、レザーグッズのステッチに使われた蜜蝋の色から。また実用性を高めるため、タンブールにはスポーツウォッチ並みの100mという防水性能も与えられていた。
以降タンブールはコンプリケーションを増やしていくが、パーソナライゼーションが可能な「モノグラム・トゥールビヨン」は別として、他のラインナップには高度な実用性が追求された。08年の「オリエンテーション」や、10年の「スピン・タイム GMT」はもちろん、11年にリリースされた「ミニッツリピーター」ですら例外ではない。個性的な太鼓型ケースとユニークな機構で目を惹くタンブール。しかしその本質は、あくまでも旅で使える実用時計だったのである。
2010
Spin Time
LVムーブメントのアイコンとなったスピン・タイム。キューブでホームタイム、GMT副時針でローカルタイムを表示する。黄色いGMT針は、ケース左側のボタンで早送りと逆戻しが可能。自動巻き(Cal.LV119)。18KWG(直径44mm)。553万円(参考価格)。
2011
Minute Repeater
タンブールに加わったミニッツリピーター。ローカルタイムではなく、文字盤中心に置かれたホームタイムの時刻を鳴らす。ムーブメントの設計と製造はラ ファブリク デュ タン ルイ・ヴィトン。手巻き(Cal.LV178)。18KWG(直径44mm)。3000万円(参考価格)。
もっとも時計のデザインに際して、ルイ・ヴィトンは他の時計メーカーとはまったく違うアプローチを選んだ。具体的にはマーク・ジェイコブスが2000年以降に強調した「今やセクシーでボールド」(ブルームバーグ)という路線である。タンブールのデザインは明らかにそうだったし、04年にリリースされたトゥールビヨンは、より大胆な意匠を持っていた。
そしてルイ・ヴィトンのビジネススタイルも、時計業界への参入を容易にした。ベルナール・アルノーが経営を継承して以降、ルイ・ヴィトンは製造と販売を一貫させるようになった。つまり卸しを省いて、直営店に商品を並べるスタイルである。かつて時計業界に参入するには、モノを作る以上に、どうやって流通網を開拓するかが課題だった。しかし自前の流通網と直営店を持つルイ・ヴィトンは、いきなり時計業界に参入できた。今や時計業界の定石となった製販一体だが、先駆けはルイ・ヴィトンだったのである。
実用性とデザインにフォーカスして成功を収めたタンブール。さらなる飛躍のために招かれたのが、ハムディ・シャティである。ハリー・ウィンストン・レア・タイムピーシズの社長を務め、モンブラン時計部門の責任者に転じた彼は、ウォッチビジネスの拡大を目指すルイ・ヴィトンにうってつけだった。
12年、彼は著名なジャーナリストのナザニン・ランカニーニにこう語っている。「2002年に時計作りを始めて以来、私たちの狙いとは、すべての時計を社内で組み立て、クォリティコントロールを行い、そして時計を開発することです」。11年にルイ・ヴィトンは高名な複雑時計工房、ラ ファブリク デュ タンを買収。続いて文字盤工房のレマン・カドランも手中に収めたのである。