1990年代に華開いたパテック フィリップの転換点
Ref.5000番台という新世代戦略
腕時計ブームの中で、多様な方向性を模索していたパテック フィリップ。1989年に、同社は超複雑時計の「キャリバー89」を発表し、90年代以降は、若い層向けに、スポーティーで実用的な時計をリリースした。それを象徴するのが、Ref.5000番台というリファレンスであり、97年に発表された「アクアノート」である。
SS版のRef.5065が発表された翌年に追加された、18KYG仕様である。基本スペックは右モデルに同じ。サイズの拡大にもかかわらず、小径の5066とまったく同じに見えるのは、デイト表示の大きなCal.315 S Cを採用したためである。参考商品。
1998年初出。Ref.5060のケースサイズを38.8mmに拡大し、裏蓋をシースルーに改めたのが本作である。自動巻き(Cal.315 S C)。30石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。SS。12気圧防水。参考商品。
「私は若い人たち向けに、アクアノートをリリースした時のことを覚えている。私は若い人たちが最初の年にアクアノートを買えるとは思っていなかった。というのも、高年齢のビッグコレクターたちがノーチラスを選び、これこそデイリーウォッチだと絶賛したからだ」。社長のティエリー・スターンは、かつて『Hodinkee.com』のインタビューにこう答えている。
彼のコメント通り、パテック フィリップは、アクアノートを若い人向けのコレクションとして発表した。そのため高価なブレスレットは廃され、価格を抑えるため、ケース構造も防水性能はノーチラスと同じ12気圧ながらシンプルになった。
もっとも、パテック フィリップは、このモデルを、単なるノーチラスの弟分とは見なしていなかった。それは、各モデルの進化を見れば明らかだ。パテック フィリップは、アクアノートをよりモダンなスポーツウォッチと見なして手を加えてきたのである。それは、2007〜08年以降いっそう顕著になった。また、リリース当初からクォーツモデルが充実していた点も、ノーチラスとはいささか異なる。
1999年初出。もともとラバーストラップを前提としたアクアノートだが、おそらくコレクターからのニーズを考慮したのか、ゴールドブレスレットのモデルを追加するようになった。Ref.5065は、基本スペックはすべて同じ。参考商品。
1998年初出。第2世代モデルには、3連のブレスレット付きも用意された。ケースとブレスレットの重量バランスが良いため、装着感は良好である。よく出来た時計だが、外装の質は、現行のアクアノートには及ばない。参考商品。
アクアノートの原型となったのは、言うまでもなく同社を代表する傑作、ノーチラスだった。ある伝説に従うと、デザインが出来上がった経緯は以下の通り。「1974年のバーゼル・フェアに参加したジェンタは、ホテルのレストランで夕食を食べていた。その時にノーチラスのアイデアが彼を襲った。彼は、今日知られているアイコンになるであろう時計をスケッチするのに、5分もかからなかった」(FHHジャーナル)。5分もかからなかった云々は、ジェンタ一流の物言いである。彼とパテック フィリップの技術陣は、少なくとも1975年の夏以降まで試行錯誤を続け、ノーチラスのアイデアを固めていった。
資料を読む限り、ノーチラスを特徴付けた「耳」は、試行錯誤の結果であった。薄いケースでは、防水性能を高めるためのねじ込み式の裏蓋を与えられない。そこで、ジェンタは、ミドルケースと裏蓋を一体化して防水性を高めるアイデアに至ったのだろう。ちなみに彼は、このケース構造を、1972年のオーデマ ピゲ「ロイヤル オーク」ですでに実現している。もっとも彼とパテック フィリップは、ベストな防水システムを選ぶべく、さまざまなアイデアを検討したことが資料には記されている。幸いにも、オリジナルのノーチラスが採用したキャリバー28-255は、ジョイント式の巻き真を持ち、文字盤側からリュウズとムーブメントを外すことが可能だった。つまり、裏蓋とミドルケースを一体化するにはうってつけだったのである。
しかし、このケース構造は高く付いた。ケース製造に、切削ではなく鍛造を使っていた1970年代から90年代にかけてはなおさらだろう。また、ムーブメントの不具合を確認する場合でさえも、わざわざ文字盤を外さねばならないのは、整備性の観点からすると、良い設計とは言いがたかった。もっとも、76年にリリースされたノーチラスは、当時最も高価なステンレス製の時計を標榜しており、こういった複雑なケース構造は問題にさえならなかった。また、整備性が問題になるほど、当時のノーチラスは売れたわけでもなかったのである。
アクアノートのモチーフとなったのが、ノーチラスである。「耳」でケースを固定する、という防水システムは、30年後のRef.5800まで受け継がれた。フラットな裏蓋により、装着感も優れている。自動巻き。SS(10時~4時方向の径42mm)。1976年初出。参考商品。
もっとも、製造にコストがかかり、整備性に難のある凝った2ピースケースは、〝若い人向けの時計〟にはハードルの高いものだった。同社がアクアノートの開発にあたり、〝標準的〟なケース構造を選んだのは当然といえるだろう。具体的には、ねじ込み式の裏蓋である。
とはいえ、パテック フィリップは、ベゼルとミドルケース、そして裏蓋を3分割した〝普通〟の3ピースケースで、12気圧もの防水性を与えられるとは考えていなかった。同社はノーチラスに同じく、気密性の高い2ピースケースを採用。しかし、裏蓋とミドルケースを一体化させるのではなく、ベゼルとミドルケースをひとつのブロックで成形することで、コストを下げようと試みた。もっとも、パテック フィリップが期待したほど、製造コストが下がったとは思いにくい。1997年当時、アクアノートのケースは鍛造で製造されており、ベゼルとミドルケースを一体成形するコストはかなり高く付いたと想像できるからだ。ちなみにねじ込み式の裏蓋を選ぶとケースの厚みはどうしても増してしまう。しかし幸いにもパテック フィリップには、キャリバー330 S Cという薄い自動巻きムーブメントが存在していた。
2000年前後、シースルーバックにしたRef.5060を再生産。文字盤のデザインが初代モデルと異なる。自動巻き(Cal.330 S C)。30石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。18KYG(10時~4時方向の径35.6mm)。12気圧防水。参考商品。
2007年初出。アクアノートの10周年に際して、Ref.5065はフェイスリフトを受け、Ref.5165となった。しかしわずか2年でディスコンとなったと言われている。アクアノートの中でも非常に珍しいモデル。基本スペックはRef.5065に同じ。参考商品。
今思うと、パテック フィリップの防水に対するスタンスは極めて慎重だった。12気圧もの防水を得るため、ノーチラスではベゼルとミドルケースの間に幅広のラバーパッキンを差し込み、アクアノートにはダイバーズウォッチ並みの太いOリングを噛ませたのである。しかも、ケースは密封性の高い2ピースだ。過剰とも言える構成だが、パテック フィリップは完全な気密性を求めたのだろう。同社が12気圧防水の時計に3ピースケースを採用するのは、2006年になってからである。
そう考えれば、アクアノートの初代モデル、Ref.5060がシースルーではなく、ソリッドバックを備えた理由も分からなくはない。すでにパテック フィリップは、裏蓋にサファイアクリスタルをはめ込み、ムーブメントを見せる手法を他モデルで採用していた。しかし、あえてRef.5060にSS製のケースバックを与えたのは、防水性を考慮したためではなかったか。ともあれ、パテック フィリップの入念なスタンスは、ノーチラスだけでなく、小ぶりなアクアノートにも、高い防水性をもたらした。
先述した通り、1990年代以降のパテック フィリップは、複雑時計に注力する一方で、若い人に訴求する実用的なコレクションを増やしていった。それ以前、パテック フィリップが採用したのは3に始まるリファレンスだった。しかし、大ぶりなケースとモダンなデザインを持つ新しいコレクションは、5に始まる新しいリファレンスを与えられた。今でこそ、5000番台のリファレンスは、パテック フィリップの標準的なものである。しかし1990年代当時、これらは明らかに違った意味合いを持っていた。1991年のRef.5000然り、96年の年次カレンダーRef.5136然り、だ。
1997年初出。ノーチラスとしては初の貴金属モデルとなる。ケースに合わせて、インデックスも18KYGに変更されている。基本スペックはアクアノート Ref.5066Aに同じ。防水性能も同じく12気圧である。ケース厚もSS版と同じ約9mmに留まる。参考商品。
1997年にリリースされたRef.5060Aの後継機。裏蓋がシースルーに変更された以外は、基本的に同じ。自動巻き(Cal.330SC)。30石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。SS(10時~4時方向の径35.6mm)。12気圧防水。参考商品。
この時代のパテック フィリップを象徴するのが、1997年のアクアノート Ref.5060Aだろう。ストラップはカーフでもアリゲーターでもなくトロピカルラバー、そして、文字盤と針には、パテック フィリップらしからぬほど夜光塗料が盛られた。またベルトを固定する4本のラグは、形状こそカラトラバに似ていたが、スポーツウォッチらしく、短く太く仕立てられた。文字盤の立体加工も、ノーチラスを思わせるものだったが、より立体的に改められた。もっとも、1年しか生産されなかった本作は、試作機的な意味合いが強かったように思われる。いくつかの文献は、1000本しか作られなかったと記すほど、その生産本数は少ない。
Ref.5060Aの「量産版」にあたるのが、98年リリースのRef.5065とRef.5066である。簡単に言うと、5060のケースを38.8mmに拡大したのが5065、同じ35.6mmに留めたのが5066となる。加えて、裏蓋がシースルーに改められたほか、バリエーション違いとして、ブレスレット仕様の5065/1Aも用意された。〝若い人向け〟を象徴するのが、同じタイミングで発表された、ふたつのクォーツモデルである。これらはキャリバーE 23 SCを搭載したRef.5064A(直径35.2mm)、そしてE 19 SCを採用したRef.4960A(直径29.5mm)の2モデルだった。アクアノートがクォーツモデルを用意できた理由は、当時のノーチラスと異なり、ねじ込み式の裏蓋を採用したためである。その伝統は今も続いており、アクアノートには、優れたクォーツムーブメントを載せた、女性用のモデルが数多く見られる。
1999年に追加された18KYGブレスレット版。やはりSS版のブレスレットに同じく、コマは頑強なネジ留めである。ノーチラスとは異なるが、装着感はかなり良い。基本スペックはほかのRef.5066に同じ。参考商品。
ブレスレットを加えて、実用性を増したのが本作である。ブレスレットは高級なネジ留め。なお、製造年によって、文字盤の仕上げはわずかに異なる。基本スペックはほかのRef.5066に同じ。参考商品。
なお、これを第2世代と見なすか、第1世代の改良版と見なすかは愛好家によって見解は分かれる。しかし本誌では、5065/66は第2世代モデルと定義したい。
もっとも、このモデルも、爆発的な人気を集めたわけではなかった。ノーチラスでさえ、注目を集めなかった時代に、ベーシックなアクアノートが大ヒットになったとは、お世辞にも言えないだろう。事実、パテック フィリップ現名誉会長のフィリップ・スターンは、当時を回顧してこう語る。「アクアノートやノーチラスのようなSSモデルの生産を開始した時も、我々は若い方向きに考えていました。しかしそれは誤算となり、スポーツ時やオフの週末用のものを求める〝年配の方〟に売れたのです」(アームバントウーレン誌)。
パテック フィリップは、顧客の志向にフィットさせるべく、アクアノートのラインナップを微調整していった。98年にリリースされた6モデルのうち、クォーツを載せたのは3モデル、機械式は3モデルで、18KYGケースを持つのは1本しかなかった。しかし翌99年は、発表された3つのモデルが、すべて18KYGケースを持っていた。これらは明らかに、若い人ではなく、「オフの週末用のものを求める〝年配の方〟」向けのモデルだった。
1994年にリリースされたRef.5000は、カラトラバの常識を破るモデルだった。形状はシンプルに改められ、珍しく黒文字盤にアラビックインデックスが採用された。ケースも2ピースである。自動巻き(Cal.240)。18KYGまたは18KWG(直径33mm)。参考商品。
以降もパテック フィリップは、アクアノートで試行錯誤を続けた。2004年に追加されたのは、3つのクォーツモデルで、いずれも、ベゼルにダイヤモンドをあしらったものだった。リファレンス番号は5067で、ケースのサイズは、Ref.5060、Ref.5066に同じ35.6mmである。おそらくパテック フィリップは、ねじ込み式の裏蓋を持つアクアノートはクォーツを載せた女性用モデルに適している、と判断したのだろう。もっとも、このモデルはヒット作となり、以降もパテック フィリップは、アクアノートの女性用を充実させていくことになる。
変化が訪れたのは、アクアノート10周年にあたる2007年のことだ。これに先立つ06年、パテック フィリップはノーチラスを全面的に刷新。サイズを拡大したのみならず、ケース構造を標準的な3ピースに変更した。続く07年、アクアノートもリニューアルされた。文字盤のデザインが変更されただけでなく、サイズの大きな〝ジャンボ〟ことRef.5167Aを加えたのである。ただし搭載するムーブメントは、ノーチラスで採用されたキャリバー324ではなく、まだキャリバー315であった。
パテック フィリップは、アクアノートのテコ入れをさらに続けた。08年にはブレスレット付きのRef.5167/1Aを追加。これは高振動版のキャリバー324を搭載する、実に望ましいモデルだった。そして09年には18KRGケースを持つRef.5167を追加。ムーブメントはやはり優れた324だった。コレクターによって見解は分かれるが、2007年に発表されたRef.5167A以降が、第3世代と言えるだろう。2012年の時点で、ティエリー・スターンはこう語っている。
「アクアノートとノーチラスには、まだ開発の終わっていない、ふたつの非常に強力なモデルがある。これらのふたつのモデルは、動きの面だけでなくスタイルの面でもさらに発展させることができるだろう。数十年前からあるにもかかわらず、うまく進化しているポルシェ911のようなものだ。それこそ私がこれらのモデルでやろうとしていることだ」(passion-horlogere.comより抜粋)。
彼は明示しなかったが、以降の新作を見れば、言わんとすることは明らかだ。2006年以降、ノーチラスはケースサイズを拡大した。それは明らかに、ヨーロッパやアメリカの意見を反映したものだったが、大きなケースは、アクアノートにコンプリケーションのベースとしての道も拓いたのである。
正直なところ、ねじ込み式の裏蓋を持つ2006年以降のノーチラスは、コンプリケーションムーブメントの搭載が容易になった。現在このコレクションが、さまざまな複雑機構を載せられるようになった理由である。望めば、トゥールビヨンも可能だろう。しかし、複雑時計のベースとして考えると、アクアノートはノーチラスに勝っているように思える。というのも、ケースに耳を持つノーチラスには、大ぶりなプッシュボタンやスライダーを与えるのは不可能ではないが、困難も大きい。対してシンプルなアクアノートは、ケースサイドにボタンをいくら付けても、まったく問題がないのである。優れたトラベルタイムが、ノーチラスではなく、まずアクアノートに載せられた一因だろう。加えて、「弟分」として機能を減らした結果、時計の厚み、例えばクロノグラフの厚みは、ノーチラスより抑えられた。
若い人向けのベーシックなスポーツウォッチとして企画されたアクアノート。しかし、ねじ込み式の裏蓋というケース構造は、クォーツの搭載を可能にしたほか、耳を持たないシンプルなデザインは、今や、コンプリケーションとしての可能性をもたらした。リリースから約20年を経て、大きく変わったアクアノートの立ち位置。次項では、その最新バージョンを見ていくことにしたい。